パラケルスス

パラケルススの一生

パラケルスス(Paracelsus)、本名 テオフラストゥス・フィリップス・アウレオルス・ボムバストゥス・フォン・ホーエンハイムは1493年末頃、スイスの山村アインジーデルンに生まれた。早くに母親を亡くした彼は父親に連れられフィラッハに移り住む。パラケウルススの父親ヴィルヘルムはフィラッハの市医となるほどの優秀な医学の知識を持ち、その父親から様々な医療関係の知識、器具や薬品の扱いかた、薬草の採集や調合を学んだパラケルススは、その才能を伸ばしていった。

長じるに及んで父親と同じ道を目指した彼は、1507年、14歳になってから幾つかの大学を転々とした後、最終的にフェラーラ大学に落ち着く。ここで彼は医学の古典作家たちの書を学び、そして当時の医療界にあって傑出した人物ジョバンニ・マナルディと出会う。ジョヴァンニから実践的な医学を学んだ彼は1516年、より研鑚を積むためフェラーラから放浪の旅に出る。グラナダ、リスボンからクロアチアまで数え切れない程の土地を旅して回った彼はその各土地に伝わる様々な医術を学び、そして秘術の領域までも分け入って行った。

1526年パラケルススはシュトラスブルクで市民権を得る。彼はそこで実力者の病気を癒し、その信頼を得る。その功績により1527年、パラケルススはバーゼル市の市医とバーゼル大学の医学教授の地位を得る。大学で講義を行なう事になったパラケルススは、当初はその当時の慣習に従いラテン語で講義をしていたが、やがて医学を志す全てのものが理解できるようにと講義をドイツ語で行ないはじめる。また、彼は大学に横行していた権威主義と時代遅れな医学を攻撃するパンフレットを張り出し、当時の医学に改革の風を巻き込む。これらの活動に真の医学を学ぼうとしていた学生たちは賛同し、パラケルススの講義は大盛況となった。しかし、そのパラケルススの活動に危機を感じた大学側は彼を大学から追放する事となる。

再び放浪の旅に出る事となった彼は、この頃、自分の名を「ローマの名医ケルススを超えるもの」という意味のパラケルススと改め、各地を転々として歩く。1530年の末、東スイスの都市ザンクト・ガレン市に着いた彼は市長が以前学んだ大学の知り合いであったため、一時そこに留まり、研究の時を過ごす。次に1534年、北チロルに入りインスブルック市に着いた彼はその市で発生したペストを終わらせる事に尽力。

1540年、ザルツブルグの領主司祭から同市への招待状が届き、彼はその招待に応じ、市へと旅立つ。ザルツブルグに着いた彼は、そこに安息の場所を見付けるが同時に自分の死期が近い事も悟る。カルプスオールに遺言状を筆記させた彼はその3日後、1541年9月24日、放浪の一生を終える。その死因には謎が多く、今でも論議を呼んでいる。

パラケルススの業績

パラケルススは医学の下、西欧神秘伝統、魔術、カバラ、錬金術など様々な異端の知識を統合。天体と人間及び地上物(鉱物や植物)は相互に影響しあっているという理論を展開、それを元に当時の数多くの病人を癒した。また各地を放浪・遍歴しながら膨大な量の医学的・神学的文書群を執筆。それらに秘められた深遠な思想は、今でも人間の生の真の意味を問うている。


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