ジョン・ディー
ジョン・ディーの半生
ジョン・ディー(John Dee 以下、ディーと呼ぶ)は、1527年、この世に生を受ける。成長しケンブリッジ大学に入学した彼は、その学問への探求の意欲から大学の講義だけに飽き足らず他にも様々な研究を行ない、1日のうち2時間を食事、4時間を眠りにあてる以外は全て祈りと研究に費やした。やがて既成の学問に限界を見出したディーは秘密の学問である西欧神秘伝統やカバラも研究対象とする。
1546年、トリニティ大学に特別研究員として招待された彼は、学内で上演されたアリストファネスの「平和」の演出に関わり、その学識を持って、機械仕掛けの黄金虫が人間を乗せて天に昇って行くと言う派手な演出を行い、観衆の度肝を抜く。そのため、一時学内ではディーは魔術を使ったとまで噂されたと言う。その後ルーヴァン、プリュッセル、パリの大学に留学。1551年に帰国してからも彼は研究に没頭。イギリスにユークリッド幾何学を伝えたり、新たな航海技術を考案するなどして名声を博す。ディーのこの功績は彼がいなければイギリスの数学や航海術の進歩は数十年は遅れていただろうとまでいわれる。
ディーは、やがてその名声から王室との関係も深めていくが、当時の女王メアリーに彼女の未来を占うよう頼まれたとき、その未来が不安に満ちている事を率直に告げたため、1555年反逆罪で告発され、裁判にかけられてしまう。結局、この裁判の判決は無罪となり、その後ディーはエリザベス1世に気に入られ、彼女の戴冠式の日取りを占星術で決めるなどエリザベスの相談役として寵愛を得たのであった。そして、ディーはなおも研究のため、数度に渡って大陸に渡り、様々な地で貴重な書籍を収集してまわる。この中には後にヴォイニッチ写本の名で知られた写本もあった。
天使との交流
ディーは1580年代初頭から、これまでのどの学問にも見出せなかったこの世の真理に知り近づくため、唯一なる神の御使いである天使との交流の魔術に没頭して行く事になる。だが、ディー自身は天使との交流に必要な霊的な能力を持たなかったため、そのために必要になる霊媒を得ようと、多数の霊能者と接触していく。1582年にはバルサバス・サウルという霊媒と接触、数ヶ月に渡って彼と天使召喚の作業を行なうが、天使召喚という作業はとても厳しいものであり、バルサバスはその作業に耐えられずディーの前から姿を消してしまう。
そして1585年ついに、エドワード・ケリーと出会う。ケリーはオックスフォード大学に籍を置いた事もあったが、素行が悪く既に詐欺事件の前科を持ち、その罰で両耳を落とされていた程だったが、彼の霊能力は本物でディーはケリーとの出会いにより、1582年天使との本格的な接触に成功する。
天使との交流により、彼らは様々な秘密の知識を授かって行く。最初彼らはアグリッパやカバラ関係の文献を拠り所に魔術を行なっていたが、やがて天使から直接その召喚の方法を指示され、そのための「神聖台座」や「アエメトの大印章」の使い方を教わり、独特の方法で天使との交流を行なうようになる。また、彼らが授かった知識の中でも特筆すべきは天使言語と呼ばれる「エノク語」を授かった事である。この言葉は本来、旧約聖書の偽典「エノク書」を書くのに用いられていたともいわれ、その由来からこの言語は「エノク語」と呼ばれるようになった。また、この言語は逆に綴られ記録された。それは、この言語は強烈な霊的パワーを持っているため正しく綴るととても危険だったからという。
天使との交流に成功した彼らはしかし、魔術を行なっていると言う噂が周囲に広まるにつれ、やがて周囲からの迫害によりその場所にいられなくなってしまう。そこで、ディー達は大陸へ渡る事になる。大陸へ渡った彼らはルドルフ2世に手厚く歓迎される。ディーはその歓迎に応えて「ヴォイニッチ写本」を王に献上。また、ケリーは王と意気投合し、天使召喚よりも王と共に黄金製造の為の錬金術の研究の方に没頭していく。しかし、このケリーの研究はディーとの溝を急速に深める事になり、彼らは別々の道を歩む事になる。
晩年
ケリーはその後、錬金術に失敗し30代半ばで獄死。ディーはイギリスに戻り、晩年、片田舎の教職に収まり、家族を養うために蔵書を少しずつ売るなどして食いつなぎ、1608年、その数奇な生涯を終えた。
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