コーネリアス・アグリッパ

アグリッパの一生

ハインリッヒ・コーネリアス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイム(Heinrich Cornelius Agrippa von Netteshim)、通称ネッテスハイムのアグリッパ(以下、アグリッパと呼ぶ)は、1486年9月14日、ドイツはコローニュに生まれた。彼は幼い頃から不思議なものに興味を持っており、成長するにつれカバラや西欧神秘伝統に深く傾倒して行く事になる。コローニュ大学にて学んだ後、彼はローマ皇帝マクシミリアン一世に仕え、皇帝の危険な任を受けパリに旅立つ。そこで彼は数人の同志と共に秘密団体を結成。お互いに援助しあい、世界を理想的に改革しようというこの団体の目標は、しかし成功することなく、やがて解散してしまう。

23歳の時アグリッパは友人の助けを受け、ドーレ大学の教官となる。だが神学の講義の際に自分の興味の対象となっていた西欧神秘伝統の知識を披露したために、異端者として告発され、フランスに亡命する事になる。1515年、アグリッパはマクシミリアンの軍隊に従い功績を挙げ、騎士の称号を授けられた。また、彼はその博識さから、当時ヒューマニストとして有名だったメランヒトンやエラスムス等と文通も交わしていたという。その後トゥリンとパビアで西欧神秘伝統に関する講義を行なった彼は名声を得、1518年メッツの市の弁護人となる。2年後、彼は魔法を行なったという無実の罪で捕まった女性を救ったが、宗教裁判官と衝突してしまい、弁護人の地位を去る。

1524年、アグリッパはフランソワ1世の母であるルイ公爵夫人の侍医となり年金を与えられる身分になる。しかし、後に夫人と意見の対立を起こし、この身分を手放してしまう。1529年、今度は4人の後援者を得、修史官に任じられる。しかし、この頃発表した彼の書「芸術と学問のむなしさについて」により、彼は彼の思想を危険とみなす敵達から総攻撃され、その地位を追われる。この頃、アグリッパの有名な「隠避哲学」が発表される事となる。この書は彼が20代の頃執筆したものであり、「学問と芸術のむなしさについて」で彼自身既にその内容を否定したものだったのだが、それでも魔術界に多大な影響を与える。そしてアグリッパは晩年、貴族の侍医として過ごし、1535年グルノーブルで死去した。

「隠秘哲学三書」

彼が今でも魔術界にてその名を知られるのは、20代の時、執筆した「隠秘哲学三書」と呼ばれる書により、後の魔術師達に影響を与えた事が大きい。この書はその当時の占星術や錬金術、魔術をカバラ理論の下に統合・整理。つきまとう悪魔崇拝などの迷信と区別して論じており、理論的な魔術の草分けともいわれる。


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