燃える剣の道
はじめに
ここでは、「生命の樹」の否定的存在から各セフィラについて少し簡単に説明していこう。古来より「径」の探求者は、幾つかの問いを抱き、その旅をはじめた。「私は誰?」「何故、私は此処にある?」そして、「人生の意味とは?」・・・。
生命の樹は、ユダヤの神秘的伝統「カバラ」にて伝えられてきた一つの霊的図形である。それは単純な図形だが、その内に古来よりカバラの伝統を受け継ぎし探求者が見出してきた様々な霊的知識を含み、この「樹」を研究する事において人は、最初の問いの答えを得るための一つの方法を見出すことが出来るだろう。
但し、ここで誤解しないで欲しいのは、これが唯一の方法や解釈法では無いという点である。世界には様々な人生の意味を問うための「方法」が存在し、また、この生命の樹を解釈するという方法でさえ、一つの決められたものでは無く、時代や社会の移り変わりと共に変化しつづけてきたものなのだ。
本来、カバラとはユダヤの神秘的学問から発生したユダヤ教徒のための神秘学問である。しかし、その内に潜む叡智に気付いた、キリスト教徒やその他のものたちによって、ユダヤ教徒でなくとも、そのカバラを活用するための方法が生まれた。それが、クリスチャン・カバラやヘルメティック・カバラ、あるいはオカルト・カバラとよばれるものである。
このページにおける、生命の樹の解釈と説明法は「黄金の夜明け」団におけるヘルメティック・カバラを元に、このサイト流のアレンジを加えたものである。生命の樹の図形は、10個の輝く球体で現されるセフィラ(「数」の意味。複数形はセフィロト)と、それらを繋ぐ22のパス(小径)と呼ばれる直線で成り立っている。
セフィロトとは、「神」の本質の様々な「相」を現すものとされる。神は、その計り知れない神秘の性質のゆえ、一度に全てを知ることは出来ない。そのため、学徒はセフィロトという、様々な角度からの見方を用い、それに近づき触れようとするのである。また、この各セフィラは、その一つ一つを単独のものとしてみるのではなく、他のセフィラとの深い関係を元に考えてほしい。
セフィロトは三本の垂直の柱に配される見方もある。この柱は右が慈悲の柱、左が峻厳の柱と呼ばれ、中央が調和(中庸)の柱と呼ばれる。このサイトでは生命の樹において、世界の創造を否定的三重光よりはじまり、「燃える剣」の流れを通りマルクトへと至り、我々の住まいし世界が形成されると解釈する。
このページでは、その燃える剣の道の順に否定的三重光から各セフィラの紹介・説明を行う。我らは、その終わりに位置するマルクトより、再び「叡智の蛇」の径を通って上昇の旅を始めるのである。
燃える剣の道
否定的三重光
AIN SPH 00
AIN SPH AUR 000
生命の樹の図上では、ケテルの上に、3つのヴェールをかけている。これらは、「否定の三重光」と呼ばれるが、それは人間の通常の意識にとって、否定でしか存在を測れない理解不能な概念である。
その最初に示される<AIN>は、万物すべての原因なき原因と言われる。それは0(ゼロ)に象徴されるように存在に非ず、「無」でありながら万物全てに遍くもの、創造の前段階とされるものである。「絶対空間の女王・日没の青き瞼の娘」こそ、AINの導(しるべ)となりしものである。
やがて、それが「それ」自身を意識せしめようとするとき、「無」は「無限」へと自らを収斂せしめ、<AIN SPH>「00」へと移行する。「無限」はまた、その志向する意識により顕現の前段階「無限光」、否定光の大海<AIN SPH AUR>「000」へと移行する。
これらは未だ顕現せざる3つの次元である。これらいまだ顕現せざる否定の段階においては、すべての時間および場所の概念は意味をなさない。
ケテル
遍く未顕現の「無限光」において、発生した渦巻く意識「ラシット・ハ・ギルガリム」は無限光を収斂させ、それが極限に至った時、そこには大きさのない中心の「点」=<ケテル>が顕現する。その顕現した「点」は我々には測りがたい「モナド」であり、精神エネルギーの中心、顕現する万物の源である。
この点はまた流派によって中心点ハディトとも呼ばれ、「絶対空間の女王」と永遠に交わる事により、宇宙を顕現しつづけものであるとも言われる。この万物の創造の源であり、その中に以後のセフィラ全てを含みたるケテルこそは、全ての「第一者」たる至高の「王冠」の名を受けるに相応しいものであろう。これまで「否定」でしか、測れなかったその存在がここに至ってようやく、顕現により我らの意識にその姿を垣間見せるのである。
その照応する魔法的イメージは、「王の横顔」である。彼はその顔の片面しか、こちらに見せていない。もう片面は「神」へと向いてるのである。その照応する天体は「原初動の渦巻き」である。それは、星々が誕生する渦巻き為す星雲である。その色は創造の始まりを表す純粋な白き輝きである。
このケテルに対応する神名は<AHIH>=「在りてあろうもの」であるが、これは、ケテルより生み出される後の自然の創造が静的なものではなく、あらゆる時間において顕現する全てが変化する力を現しつづけていく事を意味する。
しかしケテル自身はその、あらゆる変化の源の一切を内に含みながら「点」という状態にて、無形の存在として限定された、時間を超え自由に在り、ただ、創造の意志を溢れ含みたる純粋なる「神の火花」である。
コクマー
ケテルに溢れる創造の意志は、自らの内より次のセフィラ、<コクマー>を流出・形成させる。これから、マルクトに至るまで、この創造の力の流出は続くのであるが、もし、この流出の考えが理解しにくいと思う読者は、10個の水の無い池とそれらを繋ぐ水路を考えてみて欲しい。
最初の池(ケテル)において湧き出た水(創造の力)は、その池を満たし、繋がった水路を通じて、次の池(コクマー)を満たしていく。セフィロトの流出とは、このような感じで、マルクトまで続いていくのである。
コクマーは幾何学的に「点」が伸びる事によって生ずる「線」として示される。ここに至ってケテルはその最初の「動き」を示し始める。それは、「線」に象徴されるように一点に向かって突き進む「意志」であり、未顕現者からケテルを通じ溢れ動き始めた「意志」である。
その性質からこのコクマーは男性的な力、また知恵の力の象徴となる。この男性的な意志の力・コクマーは全ての存在の根底に流れる活力であり、動的な力である。それは次のビナーを通じて形なきものに生命を与える至高の父「アッバ」万物の父である。また、コクマーは「ロゴス」であり、原初の時に放たれた「光あれ」の「言霊」、この世界を振動させる「波」としての「言の音」である。
ビナー
コクマーに流れる力は次のセフィラ<ビナー>を形成する。この<ビナー>は「理解」であり、コクマーの意志を受け止め、その意志の力に形を与える至高の母「アイマ」となる。ここに至って、ケテルで発生した創造の意志はようやく形を取るのである。しかし、この母はまた同時に自らが形を与えしものから、その形を奪い呑み込む、暗く不毛な母「アマ」にもなる。
そして、このビナーに照応する天体は「土星」。時を司りし天体である。ここに至って創造の段階に時の概念が意味を現してくる。全ての形を与えられたものは、時間と共にその形をこのビナーに返さなければならない。ビナーは「死の運び手」であり、コクマーの自由な創造的エネルギーに「形」の束縛を与えつづける。
ビナーの名前「理解」とは深き偉大なる大海「マラー」のごとく、限りがない受容であり、全てをその内に育み、全てをその内に呑み込む。そして、ビナーの色は全ての色を呑み込む黒、漆黒の闇である。
ビナーは幾何学的には「三角」で示される。しかし、この三角は「厚み」を持たない平面であり、未だ物質として顕現するには至って無い。ここまでの3つのセフィラは「至高者」と称され、我々の通常の知的概念を超越するものである。「至高者」は以下の7つのセフィラと果てしのない隔たり<アビス(深淵)>によって分けられている。
7つのセフィラは「現実」であるが、「至高者」は観念的存在であり、我々は特別な実践学習を用い、通常の言語思考的意識を超えた意識においてのみ、その「至高者」の本質を垣間見ることが出来る。老子は説く。「道は一を生ず。一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」。
ケセド
至高の三つ組みは、深淵を超え、その反射として最初に<ケセド>を生ずる。ここから、イェソドまでのセフィロトは「セフィロト・ハ・ビニヤーン」と呼ばれ、創造の潜在力、物質的次元を意味するようになる。ケセドはコクマーと同じように男性的な力のセフィラであるが、同時に「慈悲」ともされ、水の性質を持つ。それは照応する色彩、青に象徴されるように大海、大空の如き広く拡大する力をもたらす。
また、ケセドは偉大なる創造の慈悲、愛する父である。照応する木星の惑星的性質に象徴されるように、ケセドは法と秩序をもたらす場であり、これは、ビナーから流出してきた創造的エネルギーに、構成の力を与えるものである。ケセドの幾何学的イメージは「正四面体」。ここに至って創造的エネルギーはようやく3次元の形を構築する。
ケセドを象徴する魔法のイメージは「玉座に座り冠を戴いた王」である。彼は、支配されるもの達のための安定性を保つため、その玉座を守るのである。
ゲブラー
ケセドは次のセフィラ−として<ゲブラー>を流出させる。<ゲブラー>は「峻厳」の意味の名を持ち、破壊の力を象徴する。照応する色、赤に象徴されるようにそれは、戦いと共にある「創造するための破壊」、別の言葉でいえばケセドより流出せし力に分割、制限を与える意味の破壊である。読者はよく覚えておいて欲しい。全てのセフィラは神聖なものなのである。
この破壊はまた至高の「力」である。ゲブラーはしかし、無目的な戦いの力では無く、その力は真の意志の「正義」のために使われる。また、以前に出てきたケセドとゲブラーを生命活動に例えると、ケセドは同化作用、ゲブラーは異化作用ということが出来る。ケセドは生命体に必要な物質を取り込み同化させる力、ゲブラーは不要になった物質を排出する事といえよう。
このセフィラの魔法的イメージは「戦車に乗って戦場に赴こうとしている王」であり、彼は勇気と決断を持って自らの王国のために戦地に赴き、勝利を収めるのである。
ティファレト
ケセドとゲブラーの力は調和し、次のセフィラ−、<ティファレト>を生み出す。それは、ケテルの反映であり、照応する惑星「太陽」のようにマルクトを除く全てのセフィラ−をその周りにめぐらせる「調和」と「美」の象徴である。太陽に象徴されるこのセフィラは、人間でいうと心臓付近に対応し、生命に活力を与える力の源とされる。
対応する色彩「黄金(黄)」に象徴されるように、このセフィラ−は人間にとっての「理想」であり、それを為すための「犠牲」の象徴でもある。また、「死と復活」の神、太陽神、救い主である。それゆえ、様々な神話の、死して復活する神が、このセフィラに対応する。エジプト神話のオシリス、キリスト教のキリストがその代表であろう。それらの象徴達に見られるようにこのセフィラにおいて創造的力は「移行」と「変容」を経験する。
創造的力、「神」の理念は、犠牲的な死を経て、形に受肉するのだ。ここに、第二の三つ組みは完成し、その力は顕現す。また、その変容性から、このセフィラには「酩酊する神」デュオニソスが割り当てられる。この神の神聖なる陶酔は、人間に無形の直観たる高次の自己の存在を指し示す。
ネツァク
ティファレトにおいて完成した第二の三つ組みは次の第三の三つ組みを形作るべく、ネツァクを生み出す。ネツァクは「勝利」の意味の名を持ち、美と魅力を授ける「愛」の勝利の力を表わす。愛、すなわち他者との同一化に象徴されるようにネツァクでは、創造的エネルギーは引き合う力を経験する。
また、対応する色彩「緑」に象徴されるように、ネツァクは自然の諸力や、四大の精との接触も司り、緑豊かな自然の恵みによる繁栄と贅沢さの影響も併せ持つセフィラである。ネツァクにおいては創造的エネルギーは、まだ比較的自由にして流動的ながらも、より物質に近しい形を取り、その根底に本能と情動の力を発す。
またネツァクは人間や生物に備わる感情を司るセフィラでもある。それゆえ、ネツァクと接するときは学徒は知性や理性ではなく、「感情」の同調をもってなすべきである。
ホド
ネツァクは次のセフィラ−<ホド>を生み出す。<ホド>は、「壮麗」の意味の名を持ち、このセフィラに照応する神ヘルメス、また照応する惑星、水星のように分別や明敏さ、ずるさ、賢さなどの「知識」より生ず、栄光と壮麗さを表わす。このセフィラに対応する色彩はオレンジである。
また、ホドはその知としての性質から、術式とオカルト的知識を司るセフィラでもある。ホドはネツァクと反し、創造的エネルギーに斥けあう力を経験させる。ホドは、ネツァクがティファレトを通しビナーを反映するように、その逆としてのコクマーの反映でもあり、人間的知性の象徴である。ホドは自然により力を封じ込められた形として知覚される天球である。
イェソド
ネツァクとホドはイェソドを生み出し、第3の三つ組みを完成させる。そのイェソドは「基礎」の意味の名を持ち、我々の物質的世界を築いている直前の段階の「土台」を表わす。それはまた、全てに偏在し神秘的に流動する力より成り立つ「星幽界」とも呼ばれる存在である。
ここはアニマ・ムンディ、世界の魂、ユング心理学に言う集合的無意識であり、イェソドはその世界に属す心霊的現象も司る。ここはまた、様々なイメージが集う場であり、幻想、忘れ去られし記憶の容れ物でもある。
これらを理解するとき、学徒はこのセフィラの対応する天体「月」の象徴の理解を得るだろう。イェソドは、物質界へ顕現するための準備を終えた、創造的エネルギーの最後の検閲機構でもある。
マルクト
ケテルから流出してきた創造のエネルギーは、このセフィラ<マルクト>において、我々が通常知覚する物質的世界の形に顕現を行い、その流出を一段落させる事になる。
燃える剣の道を降りきたりた、一個の存在と成るものは、ここに物質的世界を経験し、その物質的世界に秘められし叡智を学ぶだろう。やがて、その存在は再び物質的世界を土台としながら、智恵の蛇の小径を昇りはじめ、はじめの場所への回帰の旅を始める事になる。
マルクトは我々の住む「大地」であるが、しかし同時にまた我々と共に生ける物質の根本的力、四大の精霊たち、四大元素の存在する場でもある。マルクトは3つの三つ組みから独立した存在でありながらも、それら全てのセフィラの影響を受け入れ、同時に複数の色彩で現される唯一のセフィラである。
マルクトの魔法イメージは「冠を抱き、玉座に座った若い女性」である。女神イシスの「明るき豊穣の母」としての局面をマルクトは象徴する。我らが住まいし「王国」こそ、このマルクトである。
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