元祖黄金の夜明け団の歴史(誕生と成長)

黄金の夜明け団誕生の時代背景

19世紀の末はイギリス。科学の発展と共に、それまで人々に重くのしかかっていたキリスト教の宗教的思想弾圧は、その威光と共に地に落ちることになった。また、産業革命により生まれた中産階級の暮らしは近代化されてきており、科学と合理化の光は人々から古代の秘教やオカルトを追い払うかのように捉えられた。しかし、実際は逆だったのである。この時代は、オカルトや神秘思想が類を見ないほど発展した時代でもあったのだ。19世紀半ばに始まった心霊主義は爆発的なブームになり、イギリスでも交霊会があちらこちらで毎夜のように行われた。

また、マダム・ブラヴァッキー率いる神智学会の成長により、イギリスの西洋神秘伝統界でも、東洋の叡智が盛んに取り入れられるようになっていった。そんな中でもあえて、西洋の神秘伝統を希求するもの達は、フリーメーソンや薔薇十字団の名前の下、多くの秘教研究団体を立ち上げていた。しかし、その頃の秘教研究団体は西洋神秘伝統に興味を持ったくらいの初心者的人物が集まるものでしか無い事が殆どであり、西洋神秘伝統を深く研究するウェストコットやメイザース達は、満たされない思いを持っていた。

暗号文書と黄金の夜明け団の誕生

「暗号文書」の一枚(http://hermetic.com/gdlibrary/cipher/より)

その始まりは、奇妙な「暗号文書」が発見された事であった。A・F・A・ウッドフォードという牧師によって見つけられた、60枚のこの暗号文書は解読のため、彼の知り合いであるW・W・ウエストコットに送られる事となる。ウェストコットは、1887年、その暗号文書をたやすく解読し、これが西洋神秘伝統の秘密結社の入門儀礼等を記した物である事を知る。さらに、この文書には、その秘密結社のチーフ・アデプトは、ドイツに在住するフローレン・シュプレンゲル(魔法名SDA)という人物であり、文書の内容に興味を持ったならば、連絡を取られたしとの内容も書かれていた。

ウェストコットはこの人物と、連絡を取り合う事に成功(*)。彼女から、ロンドンに西洋の秘教結社を設立する認可を受けたウエストコットは、自宅の居候S・L・M・メイザースに、単純なものに過ぎなかった暗号文書からしっかりとした儀式を作らせる。また、SRIAの至高術士であったW・R・ウッドマンも引き込んで、この3人で兼ねてからの念願であった、西洋秘教伝統を一般人にも解りやすく学習させる結社を作る事にする。そして1888年、秘教結社「黄金の夜明け」団(以後、GD団と略す)が生まれたのだ。

(*)注)「フローレン・シュプレンゲル」という存在について、現在、主流となっている説では、ウェストコットがGD団の権威づけのために作り出した、架空の人物であり、よって、彼女からの手紙(SDA書簡)も、ウェストコットの捏造品とされている。

黄金の夜明け団の成長

GD団設立許可証

GD団は、設立当初はロンドンにあるイシス・ウラニア・テンプルでの3名のみの活動だったが、ウェストコットのSRIAや神智学協会の「ルシファー」誌での広報活動、メイザースの大英博物館の図書館での個人的勧誘等によって、徐々にその人数を増やしていく事となる。この頃、入団した者としては、1888年3月、最初の参入者のミナ・ベルグソン(後にメイザースの妻となる)から、フローレンス・ファー、アニー・ホーニマン、W・B・イェイツ、A・E・ウェイト、J・W・ブロッディ=イネスなどがいる。基本的には、このGD団という団体の性質は、西洋の秘教の崇高なる研究結社というよりは、オカルトの愛好会という雰囲気が強く、団員の一人、セシル・ジョーンズが語る「他の色々なクラブと同様に暇つぶしの場所であり、友人と会う場所」のように和気あいあいな活動といった状態であったとされている。

1890年にもなると、GD団は勧誘したメンバーがまたメンバーを呼び、芋蔓式にメンバー数も100名を越え、順調に成長を遂げる。しかし、この年、8月23日にシュプレンゲルの死亡の知らせが届く。GD団はドイツの首領との関係を絶たれ、独立の道を歩み出す事になる。また、この頃、ミナ・ベルグソンとメイザースは結婚。その後、ミナの親友であるアニー・ホーニマンの誘いにより、このメイザース夫妻はミナの家族の住むパリへと旅行する。

ルビーの薔薇と金の十字架団

しかし、このパリ旅行の最中、ミナの霊媒的な素質が現れ、メイザースはSDAとは別の「秘密の首領」(*)からの霊界通信を受け取る事となる。この体験に意を強くしたメイザースは、ロンドンへ戻ると、GD団のメンバーに自分自身が秘密の首領の代理人に任ぜられたと宣言。今までは名ばかりで、あまり機能してなかったGD団のセカンド・オーダーを本格的な秘教結社(ルビーの薔薇と金の十字架団)へと大改造しはじめる。ドイツの首領との連絡が絶たれて不安になっていたGDメンバーはこれを歓迎。ここに、GD団のセカンド・オーダーは本格的な秘教伝統の研究結社と化す。

1892年、セカンド・オーダーの改造を終えた、メイザース夫妻はパリに完全に移住。以後、メイザースは死ぬまでパリに暮らす事となったが、パリでのメイザースは以前よりの奇人ぶりをより増して発揮。無職だったメイザースは、アニー・ホーニマンから、金銭的援助を受ける生活をしながら、自らをケルト・スコットランドの血統と考え、タータンやキルトを着用したり、この頃流行していた自転車に乗ったりして、ロンドンのGD団メンバーに呆れられる。しかし、GD団自体はこの後しばらくは順調な活動を行う。

(*)注)このメイザースの出会ったとされる「秘密の首領」は、その魔法名をルックス・エ・テネブリスといい、人間としてはベルギーに住んでいたとされるが、現在でもそれが誰なのかは、はっきりしていない。

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