アレイスター・クロウリー伝(GD団時代)

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幻滅と孤立

GD団への入団を「聖杯の隠されし教会」への参入と等しいものとまでも捉えたクロウリー。彼はGD団に入団するにあたって、あと少しで卒業できるケンブリッジ大学を退学し、GD団とのやり取りに便利なロンドンのChancery Laneに家を借りて移り住んだりまでしていた。しかし、クロウリーの期待は裏切られることになる。入団後に教えられた「秘密知識」が彼にとっては、あまりにお粗末すぎたのだ。

GD団としては入団したばかりの団員には、基礎的な教義から教えていくのが当然だったのだが、クロウリーとしては入団したらすぐにでも、秘密教義の奥義を教えてもらえるものと考えていたらしい。彼は後に、このGD団に入団した時のことを「入団儀式で”口外したら死ぬぞ”といった凄い脅し文句の後に教えられた知識は、ヘブライ文字のアルファベットや七惑星の名前だった」と皮肉っている。

実際、クロウリーの学習レベルは高く、彼はその後、団での位階を駆け昇る事になる。「告白」によると、98年の12月にはジェレーターの位階へ、翌年の1月にセオリカス、2月にプラクティカスへと進んだそうである。しかし、クロウリーは、その間に交流した多くの団員にも失望することになる。GD団のメンバーの多くは、当時の英国の中流階級層で成り立っていた。この団員達の事が、ジョーンズやベーカー等の僅かな例外を除いて、クロウリーの眼には凡庸な人間の集まりとしか見えなかったのだ。当然、彼は反抗的な態度を取り、また、そういった彼の態度がGD団のメンバーの間でも噂となり、団内でも孤立していくことになる。

アラン・ベネット

アラン・ベネットの写真
(アラン・ベネット)

しかし、そんなクロウリーに驚くべき人物との出会いが訪れる。その人物の名はAllan Bennett(アラン・ベネット。以後ベネットと略す)。99年の3月22日に団の春分儀式に参加していたクロウリーは、偶然、目前にいた人物から大きな霊的・魔術的力を感じたのだ。その人物こそがベネットであった。ベネットは、魔術に深い知識と実力を持ち、GD団でも高位階の魔術師であり、他のメンバーからも恐れられていた。また、当時としてはあまり知られていなかった科学的知識、特に電気などの高度な知識を有しており、彼はこの知識を活かし、「Lustre」と呼ぶ「Blasting Rod」あるいは「魔法の棒」を作り持ち歩いていたとする話が伝わっている。

この「Lustre」については、クロウリーが「告白」で、次のような興味深い話を伝えている。ある日、ベネットが神智学会の集まりに出た時、この棒の威力を疑った男がいた。男からこの棒を使うことを要求されたベネットが実際に男にこの棒を使ってやったところ、男の精神や筋肉に強い衝撃が走り、彼は、そのダメージから回復するのに14時間くらいかかったという(この棒は、現代的に考えれば、一種の強力なスタンガンみたいなものであるとの説もある)。

クロウリーは、儀式の後、ローブを脱いでからこの恐るべき人物に近づいてみたのだ。するとベネットは、クロウリーの目を見つめて「弟よ。君はゲーティアをもてあそんでいる」と喋りかけて来たという。クロウリーが、そんな事は無いと言い返すと「では、ゲーティアが君をもてあそんでいるのだ」といった会話がやり取りされたという。クロウリーは、ベネットの能力に感銘し早速弟子入りを希望。ベネットも彼に好意を持った模様で、その申し出を受け入れる。

ベネットは魔術や科学に関する方面には強くとも、体は弱く、喘息の持病を持っていた。その為、定職に就けず、金銭的に貧窮した日々を送っていたらしい。この時期のクロウリーは、魔術に対して、ある理想主義的な信条を持っていた。それは、魔術の教示という事柄については、巷にあふれる詐欺師と区別するために、金銭の授受はあってはいけないというものであった(この信条の話が事実ならば、クロウリーは後年、180度信条を変える事になった訳である)。

そこでクロウリーは様々な魔術的知識を教えてもらう代わりに、ベネットに金銭を渡すのではなく自らの部屋を貸す事を提案。ベネットも、それに同意。クロウリーの部屋に間借りしたベネットは、団のルールを破り、クロウリーに多くの魔術の上級知識、儀式魔術、霊の喚起法や護符の聖別方法を教えたのであった。また、ベネットは持病の喘息の苦しみを和らげるため、かなり前から麻薬を使用していた。当然、麻薬の魔術的使用法についても知識は強く、クロウリーは、この頃にそういった知識も教えこまれたともされる。

ベネットの病気

しかし、そんな充実した期間も長くは続かなかった。ベネットの持病の喘息が悪化したのである。この時点で、イギリスの冷たい天候がベネットの喘息を悪化させていることは明らかだった。その為、ベネットがもっと温暖な地で転地療養すれば、彼の病状は良くなるだろうと考えることが出来た。しかし、ベネットにはそれだけの蓄えが無い。また、この時、クロウリーは父の遺産で十分な金を持っていたが、先の魔術的信条というものの為に、ベネットには金を出せないと考えたらしい。

そこで、クロウリーはジョーンズと協力してゲーティアに登場する病気治療を司る悪魔「ブエル」を呼び出してベネットを治療しようと考える。この魔術作業では、ブエルの兜を被った頭部と足を半物質的にまで出現させることに成功したと「告白」に記されている。しかし、それでもベネットの病状は良くならなかった。結局、そのすぐ後にクロウリーが彼の愛人にベネットの件で話をしたところ、彼女が好意的に金を出してくれたという。

クロウリーは愛人の出してくれた金を使って、ベネットをセイロン島へ転地療養に送り出す事になる。この時、ベネットは別れ際にクロウリーに一冊のノートを渡したそうである。そのノートには数に関してのカバラ的な照応が書かれていた。クロウリーは後にそのノートの内容を発展させ、魔術界で有名な「777」という書籍を著している。

セイロンの気候がベネットに良い作用をもたらしたのだろう。その後、ベネットの病状は好転し、順調に回復を遂げる事になる。クロウリーは、この一連の流れを、ブエルを呼び出した自らの魔術が効果を挙げたのだと考えたようであった。(「告白」では、クロウリーは魔術的信条の為にベネットに金を出さなかったと書いている。しかし、クロウリーの近い関係者は、実質的には彼が金が惜しかっただけだろうとの話もしている。また、同様に好意的に金を出してくれたという愛人も、実はクロウリーが、2人の関係を夫にばらすぞと脅迫して、彼女は泣く泣く金を出したのだという話もある)

アブラメリン

この時期、クロウリーは借りている家の2つの部屋を使って白魔術用と黒魔術用の2種類のテンプルを構築していたという。黒魔術のテンプルには小鳥などを犠牲にして生き血を頻繁に捧げた骸骨を神像として設置。当然、このテンプルは禍々しい心霊的雰囲気に包まれたらしい。彼の家では怪奇現象が頻繁に起きていたという。また、クロウリーはアブラメリン魔術にも手を出そうとしていたか、出していたらしい。「告白」で「アブラメリンのデーモン達は呼び出さずとも出てきた」して、次のような体験を記している。

ある晩、クロウリーとジョーンズが夕食に行く為に部屋を出ようとした。その時に彼らは、部屋の雰囲気が、それまで自分たちが扱っていた魔術の力に満たされて、階段に半固体の影が存在するのに気がついたという。しばらくして夕食を終え彼らが部屋に戻ってみると、ドアが開け放たれ、テンプルの家具や護符がめちゃくちゃになっていた。それらを片付けようとした彼らは、半物質化された霊的存在が徒党をなして部屋の周りを歩いている幻視を得たという。

これらの怪事に懲りたのであろう。クロウリーはアブラメリンの魔術を正しく実施しようと考えるに至る。アブラメリンの魔術を正しく実施するには、様々な細かい条件が必要になるのだ。まずは修行の場所から細かい条件がある。この魔術を行う家屋は、ある程度、人里から離れている事。また、北に面するドアの外に細かな川砂を一面に敷く事の出来るテラスがある事。そして、霊達が集合できるロッジがある事などが必要だとされるのだ。これらの条件を満たす部屋をロンドンに見つけられなかったクロウリーは、遠く離れたネス湖の南東にその条件に適した物件を見つける。それがボレスキン館である。彼は、早速、この物件を購入したのであった。

ボレスキン館の写真
(ボレスキン館)

また、アブラメリンの魔術は、始める時期や期間にも条件がある。まず、開始の時期はイースターからである事。そして、この魔術を成功させる為には、イースターから6ヶ月間の祈りと精進潔斎の日々が必要になるとされるのだ。クロウリーは、この魔術を翌年のイースターから始めるために、ボレスキン館の改造に着手する。家屋を改造しテラスやロッジを設置した彼は、また、この場所柄も気に入ったらしく、その後も長年この家に居座り、自らをボレスキンの地主と呼んで魔術や詩作に励む事になったのであった。

GD団の争い

99年の5月にGD団の第1団の最上位位階であるフィロソファスに達していたクロウリーは、同年の暮れ頃には、第2団に上がれるくらいの段階まで達した。入団から1年くらいで、その段階まで達したのであるから、異例のスピード昇進だったといえるだろう。当然、彼としては第2団へも、すぐにでも入団できるものと考えていた模様である。しかし、GD団の中心的グループであるロンドン・グループには彼の反抗的な態度をはじめ、同性愛趣味や放蕩生活の悪評が既に知れ渡っていた。

また、この頃にはGD団首領の一人であるメイザースとロンドン・グループは反目しあっていた。ベネットはメイザースの忠実な弟子であった為、彼と親しく接していたクロウリーは当然、ロンドン・グループからもメイザース派と見られる事になる。これらの理由から、彼の第2団入団はロンドン・グループから拒否されてしまうことになる。この際にロンドン・グループの幹部であり、後のノーベル賞詩人W.B.Yeats(以後、イェイツ)はクロウリーへの嫌悪感から「魔術結社は少年院となるべきものにあらず」と言い放ったとの話もある。

この辺りは当サイトの「元祖黄金の夜明け団の歴史」にも記しているので、そちらも読んで欲しい。ロンドン・グループに第2団入団を拒否されたクロウリーは、パリにいるGD団首領メイザースを頼る事にする。この申し出に、メイザースとしても反抗的なロンドン・グループへの良い面あてになると捉えたのであろう。1899年12月にクロウリーをポータルに昇進。1900年1月16日には、第2団のイニシェーションを行ってやったのであった。

メイザースのおかげで、第2団に昇進したクロウリー。ロンドンに戻った彼は当然、第2団の団員の権利である第2団用の高等魔術の教義を書いた文書の貸出をロンドン・グループに申し込む。しかし、この申し出は断られ、しかもメイザースによって勝手に行われたイニシェーションなど認めないと言われてしまったのだった。首領の決定を認めないというロンドン・グループの行動は実質的に、反乱を起こしたと言っていいものであった。

そして、1900年3月29日の集会でロンドン・グループは、とうとう正式にメイザースを団から追放するという決定をしてしまう。その通知を受け取ったメイザースは当然、大激怒。この通知への返信として、彼の「秘密の首領」に頼んでロンドン・グループに罰を与えてもらうとの脅迫状を送っている。

この時期、ベネットの影響でメイザース信者であったクロウリーは、これらの事情を知り、メイザースへの援軍志願の手紙を送信。受諾された彼は4月9日パリのメイザースの下へと渡り、両者でロンドン・グループ粛清のプランを練る事になる。もちろん、クロウリーの胸中にはこの作戦が成功した暁には、自分がそのグループのトップになれるとの目論見もあったようである。そして、メイザースからはロンドン・グループの魔術的攻撃に対する方法も指示された。

実際、後に伝わっている話では、この時期、ロンドン・グループの何人かがクロウリーに魔術攻撃を行ったという。彼らの話では、クロウリーの愛人の意識領域に魔術的干渉を与え、彼女にクロウリーへの反抗を行わせたらしい。また、クロウリーの持っていたメイザースから渡された護符が白色に変色したり、火の気も無いのに、彼のゴムの雨具が炎となって溶けてしまうという怪異が起こったとの報告もある。そしてクロウリーが道を歩いていると、その目の前を暴れ馬の馬車が駆け抜けていき、彼は間一髪で死を免れたという、命に関わるような重大なアクシデントも起こったそうである。

ブライス・ロードの戦い

これらの攻撃を受けながらも4月13日、ロンドンへと乗り込んだクロウリーは、まず地元の酒場で屈強な用心棒を数人雇う。そして、ロンドンのBlythe Road(ブライス通り)にある、GD第2団用に特別に用意された部屋、すなわち敵地の中心地を抑えるという挙に出たのであった。この事件は後に「ブライス・ロードの戦い」と言われるようになる。この時、第2団の部屋には数人のGD団員がいた模様であるが、大男たち数人に押さえられては手も足も出ない。そこで、警察が呼ばれる事になったのだが、ちょうど、その部屋の正当な持ち主がいなかった為、警察も何もいうことが出来ず、錠前はしばらくそのままになったという。

しかし、4月19日正当な持ち主が戻ると当然のごとく、すぐにその錠前は元に戻される。それを知ったクロウリーは、メイザースから教示された奇妙な魔術防御法を行う。それは、敵には邪悪な吸血鬼がいるため、冷えた鉄とタータン・キルトを用意しろとのものであった。これを、そのまま信じ込んだクロウリーはタータン・キルトを着て、腰に短剣、顔に黒い仮面という奇妙な格好で再度、第2団の部屋に乗り込んだという。

現場に着き、またも錠前を交換しようとしたクロウリーだったが、今度は警官に阻まれることになる。クロウリーは、この部屋の中身は団の首領であるメイザースのものであると主張。ロンドン・グループのメンバー達は、実際に部屋の使用料を払い、それらを使用している彼らのものであると主張。結局、警官は事の是非を判断しかねる為、お互いに裁判で決着をつけるように提言し、ひとまずクロウリーを帰らせたのだった。その後、クロウリーはロンドン・グループの代表相手に実際に裁判を起こす。しかし、法的に見て、どう考えてもメイザース側に勝ち目が無いと理解したクロウリーは、裁判を取りやめたのだった。

世界旅行への旅立ち

首領の勝利を信じて疑わなかったクロウリーは、これらの一連の騒動が一段落した後、疑念を持ちつつ6月にパリのメイザースの元に報告の為に戻る。しかし、そこで彼が見たのは、幾つもの豆の一粒一粒にロンドン・グループの団員達の名前を書き込み、呪いをかけている半狂乱な首領メイザースの姿であったという。この呪いが効いたのかどうかはさだかでは無いが、実際にその後、ロンドン・グループは混乱し反目しあうようになったようである。

しかし、クロウリーとしては、この「団の首領」の姿を見て、思うところがあったのかもしれない。たまたまメイザースのところに来ていたメキシコから戻った2人のGD団員に、メキシコの魅力を聞いた彼は、何もかも投げ捨てて、現地の大火山に登りたいとの思いから、6月の終わりに世界旅行に出掛けてしまったのだった。


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