無意識の段階
集団が形成する無意識
先に述べた、外界の情報を人が認識するための意識の機能は、その人間が生まれた時からの経験や学習により構成されるものです。例えば、「リンゴは赤い」といった一般的には常識と思われるような事柄も、その人が暮らしてきた環境で見るリンゴが全て青ければ、その人にとっては「リンゴは青い」ものなのかもしれないのです。
こういった、何かをどう認識するかに際して生じてくる違いは、個々人がその経験や学習によって意識に構成するものです。よって個人個人にとって何かを認識するための機能は様々な違いがあるものです。しかし、個人は確かにそれぞれ個人としての人生を歩み、個人にとっての認識の違いを形成しますが、その生まれ属している環境によって、各人達の間でも共通する考え方というものが生まれるのです。
家族、村や町、学校、職場、そしてその属する国家や民族など、共通する時と場所を過ごす人達の間で生まれるものがそれです。例えば、家族単位の違いであれば「味噌汁」の味をとってみると、ある家庭の人達はみんな白味噌の味を思い浮かべ、ある家庭の人は赤味噌を思い浮かべるかもしれません。
例えば、街単位であれば「燃えるゴミの日」は火曜日と思うところもあれば、水曜日であるところもあるでしょう。そして、国という単位で見れば「日本人」にとっては馴染みの深い事、相撲や歌舞伎などでも、他の国の人にとっては、それらがとても奇妙なものに映る事があるといった事はよく聞かれる話でしょう。これらはひとえに、人間がその生まれ育ってきた環境の「集団が形成」する、その集団独自としての無意識といえるものでしょう。
神秘行的な無意識の段階の解釈
先にユング心理学では、個人の無意識の下には集合的無意識というものがあるとしました。この集合的無意識というものは、ユングの理論的には、人間がその生物として共通して生まれ持った「型」であるとしています。その型は本来人間が全て生まれた時には既にあるものだとされていますが、神秘行界では、それをさらに発展解釈し、この個人的無意識と集合的無意識の間に、実はこういった様々な「段階の違い」を持つ集団としての無意識の領域があるとしたのです。下の図を見てください。
上の図から見て解るように、まず、個人の無意識は、その下に家族という集団としての無意識を持っているといえるでしょう。誰しも、その家庭ごとの決まりごとや考え方というものが思い当たると思います。人は家庭に属して育ちます。そのため、その家庭独自の決まりごとみたいなものは、その人が、個人的な無意識を形成する一つの大きな要因となるのです。
そして、その下にはもう少し大きなグループ、例えば、親戚や血筋などとしての集団の無意識があるでしょう。そしてその下にはもう少し大きなグループ、村や町、学校、職場としての地域的な集団の無意識、さらにその下にはそれより大きなグループとしての「国家的無意識」「民族的無意識」といった集団の無意識の領域が存在します。
これら、その個人が誕生し生活している環境による学習は、その人個人の奥に、その属する集団として段階的な集団の無意識を形成していくのです。こういった様々な段階の層の無意識の上に、個人としての無意識は成り立っているといえるでしょう。神秘的自己探求を志すものは、様々な神秘行を学習するときには、各神秘行で扱われる体系の違いが生まれた背景として、こういった民族や国家による集団的な無意識の違いがある事を認識しておいてください。
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