S・L・M・メイザース

首領メイザース

Samuel Liddel Macgregor Mathers(以下、メイザース)は、GD団三首領の一人として、また魔術の天才として現代にその名を知られる。ちなみに彼の名前(Mathers)の呼び方は諸説あり、メイザース、マサーズ、マザース、マザーズなどあるが、このHPではメイザースとして統一する。

彼の性格を言うならば、自己中心的、単純、好戦的、奇人、しかし、自分の信じるものには並々ならぬ誠実さを有する一途な男であったとの事である。メイザースはまた、自分がスコットランドの氏族の血筋であるという奇妙な考えを抱き(現代の厨二病にも似ているだろう)、名前に氏族「Macgregor」の名を付け加えたり、自らをグランストリー伯爵などと名乗ったりしている。この辺からもよく言えば彼のロマンチシズム、悪く言えば自らを高貴な血筋であると考えたりする妄想癖が伺えるだろう。

メイザースの半生

メイザースは1854年1月8日、ロンドンのド・ボーヴァロードにて生まれた。父はウィリアム、母はメアリー・アンであり、ウィリアムは彼が幼い頃に他界。メイザースは一人っ子で、父の死と共にボーンマス地区に転居。12歳から17歳の夏までベドフォード・グラマースクールに学び、卒業後、事務員として生計を立てる。

1877年にメイザースはフリーメーソンに入会し、本格的に隠秘学の研究を開始している。882年、英国薔薇十字協会に入会。そこで、ウェストコットやウッドマンと知り合う。1885年、母の死と共に、ロンドンへ出て、ウェストコットの家に居候する事になる。

W・B・イェイツによると、メイザースの人生は、2つの事柄に支配されていたといわれる。一つは隠秘学(魔術)、もう一つは戦争理論である。この戦争理論に関しては、彼自身、本も出しており、かなりの知識を有していた事が知れる。また、彼は趣味として、ボクシングやフェンシングもやっており、これもなかなかの腕前だったといわれる。

ウェストコットの家に居候しだした頃、メイザースはアンナ・キングスフォードという女性と出会う。アンナ・キングスフォード、19世紀のヴィクトリア朝にあって、女性差別の撤廃を唱えた女権論者、医学界の残酷な動物実験に対する非難など、その有能かつ急進的な考えを有する彼女はまた、神秘家でもあり、ロンドンに神智学協会支部を設立したり、良き理解者エドワード・メイトランドと共に、ヘルメス協会を設立するなど、西洋神秘伝統史上に多大な功績を残している。

彼女はとても奇麗な女性であったが、生来病弱であったため、繊細な感じを回りに与えていた。そして、このはかなげな美女にメイザースは崇敬し、多大な影響を受ける事になる。1886年、メイザースはアンナに招かれて、ヘルメス・ロッジでカバラに関する講演を行ったり、また、自分の訳した「ヴェールを脱いだカバラ」を彼女に捧げたりもしている。

黄金の夜明け団の設立とミナとの結婚

そんな頃、1888年、ウェストコットに誘われて、彼は「黄金の夜明け」団(GD団)の設立に尽力。三首領の一人となる。また、彼はこの頃、大英図書館に入り浸りになり、様々な貴重な隠秘学の古文献を調べている。

そして、メイザースはこの頃、運命的な出会いをする。相手は生涯の伴侶となるミナ・ベルグソンである。哲学者アンリ・ベルグソンの妹である彼女は、1865年、アイルランド系ユダヤ人の両親のもとに生まれた。15歳のときにロンドンのスレード美術学校に入学して、美術の道を志していたミナは、22歳の早春、メイザースと出会う。

彼らは1890年6月16日にいよいよ結婚。この結婚に際して、メイザースは無職でおまけにウェストコットの家に居候したままでは具合が悪いので、ミナの親友アニー・ホーニマンに紹介してもらい、彼女の父親が経営する博物館の管理人になる事にする。しかし、生来の喧嘩っぱやい性格が災いしてか、メイザースはこの後半年余りで博物館の職を口論の末に解雇されている。以後、メイザースは一生、定職につかずに過ごす事になる。

この所業に彼の職探しに協力したホーニマンは呆れて、ミナに彼女の両親のいるパリへいったん帰る事を薦める。ミナはそれに従う事にするが、メイザースもついでにとばかり、一緒についていってしまったのだ。あきれるホーニマン。しかし、この旅行の間に、メイザースはミナの霊媒的素質を開花させ「秘密の首領」とコンタクトを取るという、一大事件を引き起こしている。このコンタクトにより、意を強くしたメイザースは、ロンドンへ戻ると、今までは隠秘学同好会としてしか機能していなかったGD団の高位階者達の集まる第2団(しかし、それがウェストコットの望みであったのだが)を、本格的な秘教結社に改造する。

GD団の第2団を本格的な秘教結社に改造し終えたメイザースは、その後、再度パリへ渡り、そのままパリに住み着いてしまう。この移住に際しては「秘密の首領」に命ぜられたため、という事をメイザースは言っているが真相は不明。とにかく、結局、メイザースはこのまま、パリに死ぬまでほとんど暮らす事になる。

メイザース夫妻はこの頃、(主にミナを)心配したホーニマンからの金銭援助によって生計を立てていた。また、パリに移り住んでから、メイザースの生来の奇行癖が爆発。スコットランド人の服装、タータンやキルトを着用したり、スチュアート朝復興運動に夢中になったり、この頃流行した自転車に乗ってパリを回ったりしていた。また、妻ミナをモイナと改名させてもいる。

1895年、メイザースはエドワード・ベリッジの事を発端にホーニマンと大喧嘩してしまう。この時はホーニマンが謝り、しばらくは事が治まるが、疑心暗鬼になったメイザースは1896年、ついに結局、ホーニマンをGD団から追い出している。もちろん、ホーニマンとの仲は悪化。ホーニマンからの金銭援助によって生計を立てていたメイザース夫妻の家計は大打撃を受ける。その為、メイザースは金策に翻弄。トルコ鉄道株や、魔術書の出版などを行うが、思うように金が集まらず、ついには結社位階の金銭販売などといった事にまで手を染めていたとの話もある。

1899年、メイザースはパリのボディニエール劇場にて、イシス儀礼という芸術的儀式の一般有料公開を行い、好評を博す。しかし、彼はこれによって、ひともうけしようと企んでいたのだが、あまり金にはならなかったみたいである。また、この頃、メイザースは詐欺師ホロス夫妻と出会い、見事に騙されてホロス夫人を秘密の首領(アンナ・シュプレンゲル)と思い込み、貴重な文書を取られている。

黄金の夜明け団からの追放。その後

1900年、フローレンス・ファーをイシス・ウラニアの首領から解任する。この所業にGD団のロンドン・メンバーは反抗。これに怒ったメイザースはクロウリーを使って、ロンドンを制圧させようとする。これが「ブライス・ロードの戦い」である。しかし、この事は逆にロンドンメンバーの反撃にあい、4月にクロウリーともども、メイザースはGD団から追放されてしまう。同年5月、メイザースはこのロンドンメンバーの反撃のとき、ロンドンメンバーからついでにGD団を追放されてしまったエドワード・ベリッジと共に、パリに「A∴O∴」を設立。

1910年、クロウリーが「春秋分点」にて、GD団の秘密を出版しようとしたため、それを阻止するため裁判所に訴える。しかし、もともとGD団の秘密に法律的権利などは無いため、その訴えは却下。

1911年、G・C・ジョーンズが「ルッキング・グラス」紙に、クロウリーとの関係を悪く書かれたために、この「ルッキング・グラス」紙を相手どって起こした訴訟にメイザースは証人として、法廷に登場。法廷にて、彼自身の奇行が笑いのタネとなる。

1914年以降、フランスのために外人部隊志願兵事務局を開設。

1918年、9月頃から悪性のインフルエンザにかかり、11月21日に死去。


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