AMATEA会員心得

ここからは、AMATEAに入会を希望する学徒のために、普段から心がけておいてほしい事、注意しておいてもらいたい事等を事前に書いておこうと思う。AMATEAの会員(仮会員)がどんな感じで日常や学習/研究を行うかを認識しておいてほしい。

日常生活を大切に

まず、AM統合神秘行を学ぼうと思った者は、この学習を行うために日常生活をおろそかにしてはいけないということを、第一によく理解しておいてほしい。社会人はその本業を果たし日常の生活を大切にする事。学生はその本分たる、学問に励むこと。

その余暇たる時間で、AM統合神秘行の知識を学ぶようにしてほしい。もちろん、学んだ知識や能力、考え方を日常生活に活かすことについては問題ないし、むしろ、すすめられる事でもあろう。

学徒はこの秘教学習体系を学んでいけば、そのうちに解るようになると思うが、実は我々が普段生活している、その環境そのものが我々にとっての真のよき学びの場なのである。

精神世界・オカルト的世界で、よく誤解されることに、社会人生活を捨てて、こういった不思議そうな学問を極めたものが人生の「達人」になれるのだという考えがある。例えば、私は「真理」を知っている、あるいは求めるといってる人とか、超能力を持っている、魔力を持っている、あるいは私は「悟り」を開いてる、「最終解脱」をしたという人を崇めたり、そういった人にいろいろと教えてもらったりしたい、という行動をとるのも、その一種だ。

そういった方達は物質世界は汚いものであり、精神世界こそが高尚な本物の世界であるといった考えを持っている事が多い。しかし、教育担当はその神秘行の中心的考えとして、「全てのものは本質的には意味は無い。しかし、それは翻せば、全ての現われは同様に神の一面であり、神聖なるものなのである」との考えを抱いている。

我々の住んで生活している、この物質世界自体も、神の一つの現れとして神聖なものなのである。だから、筆者は現実の生活も極めた上で、さらに神秘行や秘教体系という面倒くさそうな学問も修めた方が、真の意味での「達人」となりえると思っているのだ。

もちろん、筆者自身、そういった段階には程遠いところにいるし、そういった段階まで行くなんて殆ど無理だと思っているが、学徒の方もその辺については自分なりによく考えてみてほしい。

オカルトに興味を持った人たちは、現実の社会生活で苦労・幻滅、あるいは自分に自信を無くして、凄そうな事を言ってる人についていけば、自分も凄い段階にまで行けるんじゃないかという幻想を持った人たちがよく、というか、そういった人達だからこそ、こういった秘密的教えに逃げ口を求める事がある。しかし、普通の社会生活も、しっかりとこなせない人は、それより実はさらにつらく面倒な神秘行体系を真に学びとることは出来ないであろう。

実際、筆者自身も継続して行うべきこれらの学習を忘れたり、サボリがちになる事もよくあるし、以前、このサイトでネットを通じて実験的に行っていた教育においても、殆どの学徒の方が日記を書く事や現実生活との両立がつらくなってやめたりしている。だが、それはそれで仕方がないと思う。少なくとも精神世界に逃げ込んで現実生活を投げ出してしまうよりは、余程、その方がその人の人生にとっては良かった事だと思うから。

現実的な学習法である事を理解する

次に、学徒に理解しておいてほしい事は、神秘行というと、よく怪しげな呪文を唱えたり術を使ったりするという訓練法で不思議な事を起こせるようになる事を期待する方もいるかもしれない。しかし、ここで紹介するAM統合神秘行には、不思議な事を起こせるといった学習方法は無い。

よく勘違いされやすいのだが、本来、神秘行の実践学習というものは、人間が本来持っている能力を最大限活用出来るようにするという、とても現実的なものなのである。実際の神秘行は自分自身のあらゆる能力をよく知った上で、それらを元に、この世界の様々な法則(現在科学で立証されている事から、未だ解明されてないものまで)を修得・利用し、自分の真の意志をこの世界に実現していく事こそが、とても大事な事だと私は思っている。

それゆえ、一般の人がよく期待するようなこの世界の物理的法則を完全に外れるような事については、もう一度言うが「出来ない」。教育コースを受講するものは、その点、よく理解しておいてほしい。

科学の基礎的な学問から最新の学問も出来る限り学んでいこうとすること

次に、学徒は古代から伝わる秘教的な教えを学んでいるからといって、いたずらに古代の知恵に拘る事の無いように心がけてほしい。よく、古代の知恵を学ぶ学徒が間違えやすいこととして、古代の知恵こそが本当の学問であり、現在の科学は間違った低次な教えであると考えてしまう事がある。

確かに、古代の知恵の内には現在の科学には未だ無い、様々な有用な情報が含まれている。しかし、その中には一緒に様々な誤った情報も含まれる事が多い。それらの情報を正しく取捨選択し、自分にとって真の意味で活きた知恵としていくためには、現在の科学の様々な基礎的な学問を習得しておく事が必要なのだ。

また、秘教の伝統というものは、古代においては、その当時としての「最新の学問」である事も多かったという事も忘れないでほしい。古代の人たちで真摯に神秘行を学んでいた人たちは、その多くが、そういった観点で秘教伝統を学んでいたのだろう。それが現在において、最新の学問を学ばずに古代の知恵ばかりを学ぶのは、全く逆向きの考え違いであるといえる。それらをよく理解した上で、学徒はこの秘教の伝統を継ぐ体系を学んでいって欲しい。

神秘行を行っていることを現実生活であまり口外しないこと

次に学徒が注意しておくべき点としては、神秘行を行なっている事を現実の生活であまり吹聴しない事があげられるだろう。この世界はいろいろな考えを持っている人がいる。学徒の普段の日常からは信じられない事かもしれないが、その人達の中には宗教的な事や霊的な世界といった、あまり一般にはよく知られてない事に、過度の恐怖や期待を抱く方達もいる。また、中には狂信的な宗教団体や精神的に安定を欠いた人達もいる。

現実世界でそういった方達に学徒が神秘行をやっている事が知られると、無用なトラブルを招く元となる事もある。そういった方達の誤解を解くんだ、という考え方もあるが、初心者の学徒はそれよりも自分自身の能力を高めて行く事に重点をおく方がより良いだろう。

他人の思想に無理に干渉しない

前記とも関連する事柄だが、学徒は他人の思想に無理に干渉しない事をよく肝に銘じてほしい。こういった世界の秘密を解き明かしていくという学問を学んでいると、他者と何らかの議論を行った際に、自分の考えの方が正しいと思うことが、学徒には往々にして起こると思う。しかし、そういった事は、幾ら自分のほうが正しいと思えても、「他人にとって」それは正しく無いという事は幾らでもあり得るのだ。

人はそれぞれが、それぞれの考えを持っているのである。もちろん、どう考えても相手自身にとっても自分が間違っているということが解っている場合もありうる。しかしその場合でも相手にとっては、感情的にその過ちを認めたくないという事もある。また、日々の生活の為の既得権益を守るため仕方ないなど、相手によって、いろいろな理由があるものである。

何の考えも無しに相手に無理に過ちを認めさそうとすると、即、喧嘩や争いの元となるだろう。特に宗教に関するなど、思想的なものは他者とのトラブルをよく起こす原因である。それゆえ、神秘行を学ぶものは出来ればそういった事には関わらない、あるいはよっぽど言葉を慎重に選びながら対話をするように心がけてほしい。

もちろん、相手が法律に触れる様な事や、完全に道義的に問題がある事を行っている場合は別だが、人によって解釈が違い得る、思想的な事を他人に無理矢理押し付ける様な事は、厳に慎むべきであろう。

神秘行の危険性について認識しておく

次に書いておくべき事として、学徒はこのAM統合神秘行というものを学ぶにあたって、実際に様々な実践学習をこなしていくと、普段は隠された「意識」というものに、触れていくという事になるという事を知っておいてほしい。

この隠された意識というものの内には、その人自身が触れたくないことや「自分」という心を壊しかねない事。そして、自分としては気づいていなくても生命体を構成するものとして、心が無意識的に隠しつづけてきた事柄が含まれているという事もあるのだ。

こういったものに触れるということは、その人にとって、精神を壊しかねない、とても危険な事柄になりうるという事を知っておいてほしい。

また、この実践学習体系はある段階までいたるようになると、やがて学徒は自分を取り巻く、ある不思議な「力」というものの存在に否応なしに気づかされていくことになる。そういった存在がいつも自分の身近にある事に気づくと、学徒は様々な形で、その存在から影響を受けることになる(実際は気づかなくとも、いろいろと影響を受けてはいるのだが)。

そうした場合、学徒の心身にも幾らかの危険が生じることになる事を、学習する前に、しっかりと覚悟しておいてほしい。もちろん、そうした力への対応法も、この実践学習体系にはいろいろとあるのだが、それでも危険が無くなるわけでは無いことは知っておくこと。

もし、学徒がこの神秘行の実践的な面、この世界に隠されし神秘を、どこまでも求めていきたいと思うのなら、これらの点についてよく考えるようにしておいてもらいたい。

気長な学習を心がける

この実践学問を本気で学ぼうとすると、とても長期間に渡る勉学を必要とする。よくこの分野に興味を持っている人たちの話を聞いたりすると、実践的学習をはじめてみたは良いが、長期間に渡り、似たような学習を行うため途中であきてしまったり、成果が分からないため、やる気を無くしてしまったり、他の神秘行体系に移ってしまったりすることも多いと聞く。

神秘行の中でも、AM統合神秘行のベースとなっている西欧の秘教体系の実践学習法はスポーツなどと違い、その主な対象が意識という不可思議なものであるため、成果が目に見えてあらわれるという事はほとんど無いといって良い。自分でも解らないような、ゆっくりとした変化として成長していくことが多いのだ。これから、この学問を学び始める学徒はその点を、よく理解しておいて気長に学習を続けていくことをお奨めする。

ゆとりを持って中庸の道を歩む

最後に、本来、こういった神秘行の実践学習は、とても範囲の広いものだが、このサイトでは、それらに含まれる知識の中でも特に人間つまり我々みずからが、その学問に秘められた叡智を実践し、この身に体現していくための学問を目指している。

また、このAM統合神秘行は西欧の神秘伝統をベースにしているが、その内に様々な東洋の知恵も導入しているので了承してほしい。そして、その理想は人間や自然の根本にある「意識」というものの謎を解き明かし、人間が、その本当の自分自身の姿を知る「自己探求」を行なうこと。そして、この世界で我々が成すべき、自己が真に欲する事「真の意志」を求めていく事にあるのだ。

ただ、こういった哲学的ともとれる事を目指しているからといって、このサイトを書いている私自身は、あまり真面目ぶった考え方は好きではない事をここに明記しておこう。こういった哲学的、思想的にもなりうる分野を研究していると、得てして人は、こういったものにたいして、あまりにも真剣になりやすい。

しかし、真面目にするところは真面目にする事はもちろん大切だが、幾ら哲学的な堅苦しそうなものを学習していても、学徒の方には、楽しめるところはしっかりと楽しんで、心に余裕とゆとりを持って、こういった方面の実践や勉学を続けていってもらいたいと思う。

そういった事こそが、人間の「意識」というものを扱っていくこの分野では、一番安全な方法になるのであり、そして、真に目指し歩むべき「中庸の道」なのだ。


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