薔薇十字団について
17世紀、ヨーロッパに突然登場した文書によりその名を知られた秘密結社「薔薇十字団」。謎に包まれたその活動と崇高な目的のために、当時のオカルティスト、知識人達はかつてない衝撃に包まれ、様々なところで入団の希望者達が溢れた。この薔薇十字団という結社を創った開祖こそ、様々な旅を経て、至高の知識を得たと言うクリスチャン・ローゼン・クロイツ(C・R・C)である。ここでは、魔術界でも名高いその人物と薔薇十字団の伝説を紹介していこう。
クリスチャン・ローゼン・クロイツの旅のはじまり
クリスチャン・ローゼン・クロイツ(以下、R・C)は1378年、ドイツのある名門の家に生まれた。しかし、彼の家は名門とは言っても実際の生活は貧しく、5歳になるとR・Cは教育のために修道院に入れられてしまう。修道院に入った彼は様々な学問を勉強。しかし、その当時の普通に得られる知識では満足しなかった彼は、ついに真の知識を求めるための旅に出る事にする。
R・Cには修道院で一人の親しい年上の友人がいた。その男と2人で修道院を飛び出した彼は、聖地エルサレムを目指して旅を始める。道中、様々な苦難や喜びを分け合った2人だったが、この友人はその旅の途中の、キプロスという土地で死んでしまう。大きな悲しみを味わったR・C。彼はその後も旅を続けたが、彼自身もその後すぐダマスカスで病気に倒れてしまう。この病気は重くはなかったものの、旅は中止を余儀なくされる。
賢者との出会い
しかし、ここでR・Cはある賢者と出会う。病気で療養中だった彼は、この賢者と共に研究の生活を送る事になり、やがて健康を取り戻していった。そんな時、R・Cはある神秘的な土地の噂を聞く。それはダムカルというアラビアの都市の事であり、そこには神秘家やカバラ主義者の集団がいるというものだった。ダムカルこそ、自分が捜し求めていた土地であると考えた彼は、ダマスカスの賢者に別れを告げ、アラビアへと旅だつ。
R・Cが16歳の時、彼はようやく捜し求めていた土地と人々に出会った。彼はダムカルの賢者のグループに、長きに渡って待ち望まれた人として手厚く歓迎され、仲間に迎えられたのである。R・Cはこの土地において、賢者達の様々な秘儀を学び、また「M」と呼ばれる秘儀の記された聖なる書物をラテン語に訳す仕事も行なった。
ダムカルで三年間研究を行なったR・Cはダムカルの賢者達の薦めにより、次にモロッコのフェスの地に行くことにする。その地でも彼は賢者のグループに歓迎され、いろいろな知識を学ぶ事になった。その知識の中でも特筆すべき事は、自然界の精霊たちと交流する方法であり、この方法によってR・Cは自然界の秘密に通ずる事になる。フェスの地で2年間学んだ彼は、旅の間に集めた珍しい動植物と「M」の書、そして秘密の知識を携え、いよいよ、ヨーロッパに帰る事にする。
ヨーロッパへの帰還
自分の学んだ知識が人々の役に立つだろうと、希望に満ちていた彼は、船でスペインへ戻ると、すぐさま、その土地の知識人と呼ばれるものたちを集め、自分の知識を披露したのだ。しかし、そこで彼の受けた反応は軽蔑と疑惑だけだった。その土地の知識人達は、20歳過ぎの若者であるR・Cに、自分たちの無知が暴露されるのを恐れたのである。
R・Cの期待は裏切られた。自分たちの保身を第一とする、未だ意識の目覚めて無いものたちを見て、彼は自分の持つ知識がこの地ではまだ早すぎた事を悟る。しかし、R・Cはそこで絶望してしまうことなく、新たな活動に着手する。やがて、この地にも現われるであろう、意識の目覚めたもの達のために、自分の知識のより深い研究を始めたのである。
R・Cは、生まれ故郷であるドイツに戻り、一軒の家を建て、そこにこもり静かに研究を始めた。彼はまた研究のために、その当時に於いては、とても進んだものとなる科学器具なども考案した。これらを公表すれば、彼は大きな名声と巨万の富も得られただろう。しかし、その当時の人々にとっては、それらの器具はとても危険すぎる代物であった為、彼は敢えてそれを為さなかったのだった。
「薔薇十字団」の始まり
そして、5年が過ぎた。R・Cの研究は一段落し、彼は信頼のおける友と共に、当時の芸術と学問を改革しようと考える。まず彼はその為に3人の弟子を取る。この弟子達の素性は明らかでは無いが、修道院時代の友人では無いかともいわれる。3人はR・Cの伝える秘密を守る事を誓い、彼とともに知識を筆記して後世に伝える仕事を行なったり、「M」の書の写本を作った。また、R・Cの医学的知識を頼ってやってくる病人の面倒も見た。4人は病人の治療も一切無料で行なった。この4人が「薔薇十字団」の始まりである。
やがて増えてくる病人で、R・Cの家は手狭になってきた。そこで、団の家は建て替えられる事になる。この家は、とても大きな建物となり特別に「聖霊の家」と名づけられた。また、団は新たに4人のメンバーを迎え入れた。彼らは全てドイツ人で独身であり、団のために熱心に働いたのだった。
そして、ある時を境に彼らの活動は世界各地へと分かれ、広がる事になる。彼らの秘密の知識を、それを受けるに値する人々に広く分け与えようとする目的を持ったためであった。この時、薔薇十字団員には幾年を経ても団員で有る事を証明するため、6つの規則が出来た。第一に自ら進んで無料で病人を治す事を名誉と考える。第二に特別な衣服や習慣をみにつけず、その土地の習慣に合わせて生活する。第三に毎年一回「聖霊の家」に集まる。もし出来ないときは手紙を出す。第四に団員は死に臨んで、必ず後継者を定める。第五に今後「R・C」という文字が団員の印、記号、符号とする。第六に団の存在は100年間、世界から隠す、というものである。これらに誓いを立てると、まず5人が遠い国へと旅立ち、そして1年後、残る2人も出かけ、「聖霊の家」にはR・C一人が残る事になった。
R・Cの死と復活
R・Cの以後の行動の記録は、あまり残されていない。しかし、世界各地へ散らばった7人の弟子達の活躍は素晴らしく、様々な土地に秘密の知識は伝えられ、実を結んでいった。やがて、団員の一人が英国で死んだとき、R・Cは残りのメンバーを呼び寄せる。彼は自分の死期が近づいてきたのを悟ったのであり、自分の象徴となる墓の準備を始めたのであった。そして、1484年、彼は106歳で死に、6人の弟子は彼の指示通りに、R・Cの死体を象徴の墓に埋葬した。墓は閉じられ、その存在は弟子の間の秘密とされ、6人の弟子は薔薇十字の仕事に戻ったのだった。
それから100年以上の歳月が流れた。当初の6人の団員も既にこの世を去り、彼らの弟子達が薔薇十字の教えを受け継いでいたが、この頃にはもう既にR・Cの墓の秘密は完全に忘れ去られていた。しかし、R・Cの死後からちょうど120年たった時、建築家を職業とする団員が聖霊の家で、薔薇十字団の初期の団員の名前を刻んだ銘板を発見する事になる。そこで、その団員はそれを記念して礼拝堂を作ろうと聖霊の家の改造に着手。銘板を動かしたのだが、そのとき壁が崩れてR・Cの墓への隠し扉が発見されたのだった。
その墓の扉には「120年後に私は現われるであろう」との意味の文字が書かれていた。団員たちは開祖R・Cの墓の発見に喜び、次の日の朝、扉の前に集まり墓への扉を開く。すると、その扉の先には七角形の形をした地下室が広がっていたのだった。また、その部屋は地下室なので太陽の光は射し込まないはずなのだが、不思議な事に天井付近から光が放たれ、内部は明るくなっていたのである。また、部屋の中央には丸い祭壇があり、そこに不思議な文字が刻まれた真鍮の板が置かれていた。七つの壁にもそれぞれ小さな扉があり、その中には様々な秘密の知識が記された書物や、秘薬、不思議な器具などが入っていたのだった。
団員達が中央の祭壇を動かすと、そこには真鍮の蓋があり、それも動かすと中からR・Cと思われる遺体が出てきた。その遺体は120年間も横たわっていたはずなのだが、しかし、まるで今埋葬されたかのようにとても良い状態で保存されていたのである。また、R・Cの遺体はその片手に教団にとっての聖書といえる本を持っていた。
団員たちはこの部屋を詳しく調べた後、部屋を元の状態に戻し、再び扉を封印したのだった。しばらく団員たちはあまりに神秘的な風景を見たための歓喜に満たされていたが、その後、決意も新たに団の仕事に励んでいったのだった。
まとめ
以上がR・Cと薔薇十字団の伝説である。R・Cと薔薇十字団に関しては作者不詳の文書「世界の改革」「ファーマ・フラタニティス」「コンフェッショ・フラタニティス」、またヴァレンティン・アンドレーエによって書かれたのでは無いかとされる寓意小説「化学の結婚」といったものにてのみ、その活動が知られる。この薔薇十字団に関しては、本当にあった事か、それとも空想の事なのかといった真偽論争が常に巻き起こされてきた。現在、一般的にはその存在は架空のものであり、文書群もヴァレンティン・アンドレーエによって書かれたとする説が主流である。しかし、このR・Cと薔薇十字団という存在は、西欧神秘伝統界に一つの理想的な姿を示したものとして、今後も輝き続けるであろう。
□学徒は下記を理解・記憶すること。
・クリスチャン・ローゼン・クロイツの名前とその略語(CRC、RC)を記憶すること
・「薔薇十字」「聖霊の家」、「Mの書」などの単語の意味を理解し、記憶すること。
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