「主」及び「キリスト」という存在のAM統合神秘行的捉え方について

学徒には仮入会の申し込みを送付してもらう時に、自らの信仰があれば、それを報告してもらった。学徒それぞれによって、その信仰は違うものとなっているであろう。中には無神論者の方もいるかもしれない。しかし、当教育コースを学習していくに当たっては、それらの学徒の本来の宗派に関わらず、「主」と「キリスト」という存在への信仰の「理解」が必要になる。

「主」について

ここで、一神教教徒以外の学徒は抵抗感を抱く事も出てくることだろう。実際、自分も西洋神秘伝統の学習をはじめた頃は、聖書を読んでいると目につく「主(唯一なる神)」の横暴さ、叉、これまで一神教徒が「主」、「キリスト」の名の下に行ってきた独善性による残酷な行為なども、よく見聞きしていたので、主やキリストという存在へは反感をかなり抱いていたのである。

しかし、ある程度、学習が進んでくると理解する事になったのだが、西洋神秘伝統でいう「主」とは、本来は、一神教徒の多くが崇めているような善的「人格」としての「主」ではないものなのだ。それは、人間が認識できる「人格」を超越した存在であり、我らの住む全世界を創造し、調和させ破壊し、そしてまた創造するもの。そして、全ての善と悪さえも作り出し全ての世界の顕現をもたらす、根源にある普遍的なこの世界を動かす「力」、または「法則」を創り出している「もの」を「主」と呼び変えているものだったのである。

そして元々、この世界には「正義」や「悪」を定義する絶対的な基準というものは存在しない。この考えが理解できると、一神教教徒がよく利用した「主」というものは、結局はこの世界を創り出す超越した存在を、一神教教徒が自己正当化の為に一方的な見方で都合よく利用していたに過ぎないものと納得したのである。

こういった全てを作り出し動かす、超越した存在である「主」という考え方は、この先の統合神秘行の学習において必須となる。しかし、これは学徒のこれまでの信仰を捨てるように指示しているものではないことにもよく注意してほしい。再度、強調するが、この考え方は、全てを創りだす根元的なものを「主」と呼び変えているにすぎないものなのである。よって、学徒は自らの宗派に合った理解の仕方を、それぞれで考えてみると良いだろう。ちなみに真言密教を知っている学徒ならば、大日如来という存在がかなり似ている存在である事も理解できるかもしれない。


このような考え方は、実は逆に一神教教徒の方が抵抗を感じるかもしれない。同じ「主」という言葉を扱う事になって、わかりづらくなるかもしれないが、ここでいう「主」とは、人間と人格的関わりを持ったり、人間的な意味での「契約」を行ったり、そして善い行為をした人間を救ってくれたりしてくれる、一神教教的な「主」ではない事を理解してほしい。それは、「人間」を特別視しない、全てを超越したものなのである。

また、無神論の方にとっては、それ以前に信仰など馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない。その場合、以前のSTEPの学習でも解説したが、ブロディ・イネスの言葉「霊的存在が実在するかは重要ではない。重要なのは、この世界がそれらが実在するかのように作用するという点にある」を思い出してほしい。もともと、いるかどうかが解らない、証明できないものならば、作業上、その存在があると仮定することが必要ならば、素直に仮定した上で作業を行ってみるのも有効な手であろう。逆に、仮定などしても意味がない。神など絶対にいる訳が無いと、意地になってしまう人は、心の内に自分でも気づかない何らかのコンプレックスを抱えているものである。これから先の学習を進めていく上では、そのコンプレックスが何処から来ているのかを認識する学習が、別途必要になると思われるので、教育担当まで相談してみてほしい。

「キリスト」について

次に「キリスト」という存在について述べておこう。キリストというと、一般的にはキリスト教で信仰されている「イエス・キリスト」という人物を思い浮かべることが多いであろう。しかし、統合神秘行で言うキリストとは、本来、一人一人の人間の中に存在する「神性への導き手」「主との仲介者」を意味するものだという事を、学徒はここで認識してほしい。

実際、イエスという人物について、キリスト教徒としての立場ではなく、少しでも客観的に研究した事がある方ならば知っているであろうが、元々、イエス自身はユダヤ教徒だったのである。そして重要なことだが、彼自身は「キリスト教」を創ろうとはしていなかったのだ。現在、誤解により多くの人がイエスという「人物」への信仰を行っているが、実際にはイエスはそうなってほしいとは願っていたのではない。

本来、彼の教えはユダヤ教という枠組みにおいて、我ら人間一人一人が「愛」を持ち、誰しもがその内に存在している「救い主=キリスト」を通じて、本来の「主への崇拝」を認識してほしいというものだったのである。以上の事を理解した上で、統合神秘行の学徒は西洋神秘伝統などで「キリスト」という存在が扱われている場合は、本来はそのキリストとはイエスという人物を示すものではなく、学徒自身の「真の自己」を指すものだと読み換えてほしい。


□学徒は上記を理解・記憶すること。


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